連鎖

良く無い事は続く。
写真を撮っていたら、私服警官に職務質問を受けてどうにもいい気分にはなれず、その晩、息苦しい程の胃の痛みに目が覚めて、うんうん唸りながら眠れなかった。唸りながら、もしかして怖い病気なんじゃないか、こんなに息苦しいほど胃が痛いなんて私はもう長く無いんじゃないか、などという考えも、そんな訳はなかろう、と思いつつも去来してしまった。朝、まだなんとなく不快感の残る胃を抱えて病院に行くと、胃けいれんでしょう、心配いりませんよ、様子を見ましょう、などと言って薬をくれた。そっか胃けいれんか、心配ないのか、と思って家に帰り、調べてみると胃けいれんは症状の名前であって病名ではないらしい。しかも医者にはまた夜にそういう事があるかもしれませんとさらりと言われたのだった。原因はわからないし、また痛いかもしれない、というのは結構心配になることだろう、と思ったりする。
外は明るくて、ぽやぽやと黄色い菜の花が咲いたりしている。その間に、昨日は暴走族字体で書かれたタリバン最高指導者ラディン氏という落書きを見つけた。ソメイヨシノを見に来た人達の頭上で、からすががあがあ鳴いて示威行動をして、糞を垂れたりしていた。
胃痛自体は辛かったけれど、その胃痛の派手さはこういう春の文物と釣り合っていて、そうやって痛むという事が生きていることの元気さの一つのようもだんだん思えてくる。もう痛みを忘れているのだろう。

平衡

植物が芽吹き、そこに風が吹き荒れて天気がめまぐるしく変わる、そういった季節の慌ただしさと、年度替わりによる身近な人達の状況の変化やらに、どうにも毎年参ってしまう。そういう春の状況に、自分のしたい事やすべき事が失われて、周囲をきょろきょろと見ている。
何が問題なのかすら、わからないでいるのだ。だから何をしたら良いのかなど、見当もつかない。ただただ、不安になり、なにもしたい事は無いのに、焦燥感に囚われて、何かしていないと落ち着かない。手当り次第に、脈絡や計画を欠いたまま、本を読んでみたり、語学の勉強をしてみたり、写真を撮ったりしてみるけれど、一日そうして忙しくしてみても、それらはただすり抜けて行くだけで、充実感などない。
足下に恐ろしいがらんどうが待ち受けているような気がして、そこで強い風にあおられているような気がして、今にも墜落してしまうような気がして、怖くて仕方ないのだ。
手を足を動かして、時が過ぎてゆくのを、待っている。

強風

今日は春の風が吹き荒れていた。なかなか暖かかったので、いつの間にか三兄弟に増えた観葉植物を外に出して、朝から外出したが、あまりに風が強いので鉢が倒れてしまったかもしれないな、と心配しながら夜遅くに戻って来た所、鉢は倒れていなかったものの、ハカラメの新芽と、オーストラリアビーンズの枝がぽっきりと折れてしまっていた。ハカラメの新芽は心待ちにしていた、この春初の葉で、オーストラリアビーンズは冬に弱っていてようやく元気をとりもどしつつあるところだったので、非常に残念かつ心配だ。ちゃんとこの先育って行くのだろうか?
もう一つの、そして最古参の植物である、ガジュマルは沖縄では防風に使う事もあるような木なので、何事も無かった。まだ小さいけれども、頼もしい。早く大きくなって、後の二つを風から守っておくれ。

工夫

なんとなくテレビを点けたら、NHK教育が映っていて、「今日の料理」という番組をやっていた。いつもならすぐにザッピングに移るのだけれど、今日に限って全部見てしまう。
今日の料理は「かまぼこナポリタン」「はんぺんオムレツ」「ビストロ風おでん」「かにかな?コロッケ」。名前だけで結構パンチがあるけれど、その妙な工夫料理を淡々と、しかし途中からやっている当人達も苦笑い→悪のり的になってゆくのが面白かった。一番強烈だったのは、「かまぼこナポリタン」はかまぼこをかつら剥きにしてから、細く刻んで麺状にし、あとは普通にナポリタンを作る要領で…パスタを茹でる手間と味付けが省けますね!(かまぼこは生食可だし、味がついているから)ということだったけれど、どう考えてもかまぼこを麺にする手間の方が辛い。歯ごたえもアルデンテだ、という事だけれど、かまぼこのアレはアルデンテと一緒にして良いのだろうか。「はんぺんオムレツ」はオムレツにはんぺんのさいころと、すったものを混ぜたもの(一番無難な感じ)。ビストロ風おでんはちくわとつみれをトマトで煮込んだもの(真っ赤なつみれは結構強烈だった)。「かにかな?コロッケ」はかにかまを混ぜたポテトコロッケ。コロッケは細長い成形とペンネのしっぽで海老フライの形にされていた。
最初を見逃したので、趣旨がわからないけれど、どうも残り物の練り物をどう工夫して処分するか、ということだったのではないかと思う。その趣向のこらし方に馬鹿馬鹿しさを感じて見入ってしまったけれど、段々、工夫とは何か?という事が問われているような気がしてくる気さえした。「かまぼこナポリタン」というところへ戻ると、やっぱり馬鹿馬鹿しさの方へ戻ってしまうけれど。

外出

昨日は丸ノ内のパストレイズに出かけた。8ミリからのスティルを展示。ちょうど作家の須田一政さんも会場においでで、お話が出来て、とても不思議な時間を過ごせた。
以下は、写真ではなく、須田さんのお話の、お話
8ミリを撮って、後に編集機に掛けてひとコマづつ追体験して行くようにして見て、プリントするコマを選ぶという事や、プリントは8ミリを35ミリに複写し、カラーをモノクロへと変えているのだ、という詳細な作品の作られ方。そして、しばしば変えていたフォーマットについての事。6×6のフォーマットから、ミノックス、35ミリの様な小さなフォーマットに変えたりしたのは、自分の身体に近い写真の撮り方をしてみたかったから、という事。エロスであるとか、そういう、抽象的なものが撮りたいのです、という事。
私は見たばかりの、そして今も周りを取り囲む壁にある写真(でも、それは写真なのだろうか…8ミリフィルムからこうして目の前に座る人が丁寧に紆余曲折を語ってくれる、その複雑な過程を経て、けれどその複雑な過程をその表面からは伺い知る事の出来ない、インクジェットの紙の上に現されているそのイメージ)にちらちらと落ち着き無く目を遣りながら、その話を聞いていた。しっかりとその話を聞こうとしていたけれど、私は多分的確な相槌は打てなかったと思うし、語られる言葉を幸せに受け取りながら、けれどそれを分かっていたとは到底思えなかった。
私は聞き取った話題のそれぞれの間に、時折段差のようなもの、それはさっき言っていた事とどう繋がるのだろう?相反するようにも聞こえるのだ、例えば8ミリを使って煩瑣ともいえるような過程を経て写真を作り出す事と、身体の一部のように写真を撮りたいのだと言う事と、心の中にあるものを撮りたいのだというような事とは、いったいどう繋がっているのだろう?という事を感じ取り、そして、それが目の前にある写真とどう繋がるのだろう?どう繋がらないのだろう?というような事を考えさせられていた。
断片的には分かるのだけれど、そして、分からないながらも、そこで一つの、複雑なことが語られているのだということは私にも、感じられた。論理的に完璧に整合性があり、伝達が可能であることから、外れてしまいかねない様な事、を私は聞き取っていたのかもしれなかった。
段々とそのお話を聞いているうちに、私は何を話していいのか、どうしてこうやって向かい合っていいのか分からなくなって、そして無理に喋ることはせっかく聞かせてもらった話にも、写真にも、良い事でない、という感じがしてならなくて、感謝だけして、そこを立ち去った。無理に何か話すと、心にもないこと、言いたくも無い事、そればかりになりそうだった。
帰りの電車の中で、さっき聞いた話に感じた段差の有り様を思い返していた。私はその段差に惹き付けられていた。その私には繋がりが分からない事、多分これからもずっと分からないだろう繋がり方に、私は接近出来ないけれど接近出来ないんだという事だけははっきりと分かるような、その近づけなさの有り様だけは、分かることが出来るような気がして、それが心を落ち着けた。さっき目の前に居た人が、私から遠い、ということが、私の前に他人が居る、という孤独かもしれないけれど、独りではない有り様を教えてくれているような気がしていた。
昔、他人とは私から出発しては決して辿り着けない一点だ、というような事を聞いた。昨日私は、その事を聞いていたのかもしれない。
別に、神秘めいた事として捉えたい訳ではないのだけれど、どうもああして聞いた事を、わたしは夢のようにしか思い出せない。

勉強

冬の終わり頃は毎年活動が低迷気味になってしまうのだけれど、この冬もやはりちょっと低迷してしまった。ここのところ、バイトに行く以外は一日中何もせずに(かといって落ち着いている訳でもないので、何もしないでじっとして居る事すらなんだか辛くて)そんなに楽しくも無いのに、ビーズで何か編む、といった事ばかり続けていた。そのせいで大量にビーズで作った指輪だの、ブレスレットだのが出来た。誰かに嫌がらせで差し上げようと思う。悪い気が籠った不幸のアクセサリーかもしれないけれど、その分細かくて凝った作りをしています。
でもそうやって手を動かしていたら、いつの間にか少しずつ活気が出て来て、今日はかなり活動的だった。調べものをしたり、本を読んだり、写真を撮ったりしてしばらくぶりに濃密な一日を過ごす。そして勉強をしなくちゃいけないし、なにより勉強したい、文章を書きたい、写真を撮りたい、と思った。久しぶりにやる気を感じて、意欲というものは、快感に近かったのだな、という事を思い出した。それだけのことだけれど、嬉しい。
ところで、写真を撮って図書館に行く途中、見知らぬ物静かな雰囲気のおじさんに声を掛けられて、お茶を飲みませんか、と誘われた。そういう事に慣れていないので、びっくりしてしまい、「駄目です!」とかなり厳しい口調で冷酷に断ってしまった。別にそういう誘いへの返事はそれでも構わないのだと分かっているけれど、もうちょっとやんわり「いそいでますから…」位の事は言えたんじゃないかと振り返って反省する。

準備

今晩の高速バスに乗って、熊野へ。全然準備をしていない。
旅行をまずあまりしないし、最近は旅行にはカメラは持って行かないけれど、今回はカメラとフィルムを持って行こうと考えている。特に熊野を撮ってやろうとかそんな事を考えている訳じゃないし、二週間弱の滞在で何が出来る訳でもないだろうと思っている。けれども、海や山の近いそこで、いつも東京の住宅地で撮っている事を少し批判的に見たくなった。そのために写真を撮ってみるのも良いだろうと思った。
旅行に行く前はいつもちょっと不安だ。というよりも、外出する事自体が私は少し不安だ。ひょっとしたら引きこもりの気があるのかもしれないけれど、それでも外に出れば何かしらがある、という事だけは知っていて、それが例えありきたりの当然のものであるにせよ、期待はずれのものであるにせよ、何にせよ在るというだけで途方も無い事だと私はもう知っていて、それが私を支えている。
さて、行って来てなにがあるか。


そして唐突だけれど、最近小川未明の童話の事ばかり考えている。あの因果律から放たれた脈絡の美しさは一体どういうことだろう。金の輪は太郎の死と唐突に繋ぎ合わされて、しかしそれ以外の脈絡など決して考える事が出来ない。考えてみればどんな因果律もその因果律自体はなぜかそこにあるという点で金の輪と同じような唐突さでそこにあるのだろう。だから金の輪は美しく見えるのかもしれない。

小川未明童話集 (新潮文庫)

小川未明童話集 (新潮文庫)

何はともあれ、あけましておめでとうございます。今年が良い1年でありますように。