外出

昨日は丸ノ内のパストレイズに出かけた。8ミリからのスティルを展示。ちょうど作家の須田一政さんも会場においでで、お話が出来て、とても不思議な時間を過ごせた。
以下は、写真ではなく、須田さんのお話の、お話
8ミリを撮って、後に編集機に掛けてひとコマづつ追体験して行くようにして見て、プリントするコマを選ぶという事や、プリントは8ミリを35ミリに複写し、カラーをモノクロへと変えているのだ、という詳細な作品の作られ方。そして、しばしば変えていたフォーマットについての事。6×6のフォーマットから、ミノックス、35ミリの様な小さなフォーマットに変えたりしたのは、自分の身体に近い写真の撮り方をしてみたかったから、という事。エロスであるとか、そういう、抽象的なものが撮りたいのです、という事。
私は見たばかりの、そして今も周りを取り囲む壁にある写真(でも、それは写真なのだろうか…8ミリフィルムからこうして目の前に座る人が丁寧に紆余曲折を語ってくれる、その複雑な過程を経て、けれどその複雑な過程をその表面からは伺い知る事の出来ない、インクジェットの紙の上に現されているそのイメージ)にちらちらと落ち着き無く目を遣りながら、その話を聞いていた。しっかりとその話を聞こうとしていたけれど、私は多分的確な相槌は打てなかったと思うし、語られる言葉を幸せに受け取りながら、けれどそれを分かっていたとは到底思えなかった。
私は聞き取った話題のそれぞれの間に、時折段差のようなもの、それはさっき言っていた事とどう繋がるのだろう?相反するようにも聞こえるのだ、例えば8ミリを使って煩瑣ともいえるような過程を経て写真を作り出す事と、身体の一部のように写真を撮りたいのだと言う事と、心の中にあるものを撮りたいのだというような事とは、いったいどう繋がっているのだろう?という事を感じ取り、そして、それが目の前にある写真とどう繋がるのだろう?どう繋がらないのだろう?というような事を考えさせられていた。
断片的には分かるのだけれど、そして、分からないながらも、そこで一つの、複雑なことが語られているのだということは私にも、感じられた。論理的に完璧に整合性があり、伝達が可能であることから、外れてしまいかねない様な事、を私は聞き取っていたのかもしれなかった。
段々とそのお話を聞いているうちに、私は何を話していいのか、どうしてこうやって向かい合っていいのか分からなくなって、そして無理に喋ることはせっかく聞かせてもらった話にも、写真にも、良い事でない、という感じがしてならなくて、感謝だけして、そこを立ち去った。無理に何か話すと、心にもないこと、言いたくも無い事、そればかりになりそうだった。
帰りの電車の中で、さっき聞いた話に感じた段差の有り様を思い返していた。私はその段差に惹き付けられていた。その私には繋がりが分からない事、多分これからもずっと分からないだろう繋がり方に、私は接近出来ないけれど接近出来ないんだという事だけははっきりと分かるような、その近づけなさの有り様だけは、分かることが出来るような気がして、それが心を落ち着けた。さっき目の前に居た人が、私から遠い、ということが、私の前に他人が居る、という孤独かもしれないけれど、独りではない有り様を教えてくれているような気がしていた。
昔、他人とは私から出発しては決して辿り着けない一点だ、というような事を聞いた。昨日私は、その事を聞いていたのかもしれない。
別に、神秘めいた事として捉えたい訳ではないのだけれど、どうもああして聞いた事を、わたしは夢のようにしか思い出せない。