視線

通勤電車の中で、隣に座った人と、前に立った人を血走った目でにらみ続けているマスクをした男の人を見た。落ち着きが無く明らかに尋常ではない雰囲気で、普段なら触らぬ神に祟りなしと避けるのだけれど、今日は車窓から見える町並みが穏やかな朝の日の光に照らされているのにつられたのか、ちっとも怖く無くて、30分位の間ずっと私はその睨み続けている男の人を斜め横からじっと見ていた。男の人は血走った目をしていたけれど、その動きは落ち着きがなかったけれど、秋の日が柔らかにその姿を後ろからガラス越しに照らしていて、その取り合わせに私はそういう人をじっと見ているのは危ないとかそういう理性的な判断を失ってしまったのだと思う。男の人の目を私も秋の日のように見ているような気持ちになってしまった。ずっと遠くから、ただ、見ている。何にも思わずに。それは結構気持ちがよかった。男も秋の日も隣の睨まれている人も遠い遠いひとときの夢のようだった。感情の振幅が凪いで、呼吸がとても楽だった。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ほんとうにそんな瞬間があったのか疑わしいほどの短い間、私は男がまき散らす血走った鋭利な視線と視線を交わしたような気がする。私はその時も怖くなかった。ただ、ぼんやりとそれを見ていた。男はすぐに私から目を逸らして、その後決して私の方を見る事はなかった。どうしてだかは分からないけれど、もしかしたら私の方が男よりも危ない目をしていたのかもしれないとも思う。あの時私は本当にからっぽで、自分はもう居ないんじゃないかと思うくらいだったから。
しかし振り返ってみると、男が本当に危ない人だったとしたら、私は刺されても不思議じゃないよな。