雨読

雨ばかりなので本を読む、のではなくビデオを見たり写真展に行ったりする。
日曜日
仕事の帰り道に、パルコミュージアムでの安村崇写真展を見る。空間への冷静な態度と、物の質感の緻密な写り方と、そこから生まれる違和感への繊細な在り方が上手い写真。写真の巨大なサイズも写真とぴったり。これまで〈自然をなぞる〉しか、しかも雑誌かなにかで断片的にしか見た事がなかったのがもったいなかったかな、と思う。実家という微視的、惑星という巨視的な、そういう二つの視点の極に立つ在り方は、とても今らしい在り方なのかもしれないけれど、それが私にちょっと危険を感じさせる。私の手のうちにある小さな世界と、そうした小さな世界の様々な豊かな差異などほとんど知覚出来ない広大な世界という両極の間にある、私とこの人とあの人とあそことこことがくっきりと区別されながら一緒にあり、ぶつかり合い混じり合うそこをすっとばして良いんだろうか、と。けれど、それは多分安村崇の写真に関して言われるべきことではないし、私もこの写真に対してそれを指摘したい訳などでは全然ないのだ。それは私がいつも思っている問題がこの写真によってまた呼び起こされたというだけのことで、だけれどなぜか引っかかる。ああでも、それをどうやってこの写真について、書いたら良いんだろう。この写真に関係なく、しかしこの写真に関係あるような在り方で。私は写真に倫理を求めたい訳ではないし、むしろ倫理の彼岸を求めたいのだろう、と思っていたけれど、やはりどこか倫理を求めているんだろうか。よくわからない。安村崇の写真はけれど、もう彼が実際に住むのでは無い実家という微妙な距離と、広大な風景を絵や玩具や人形によって壊してしまうことで私などが危惧する危険を回避しようとしているのだろうな、とも思った。
火曜日
休みだというのに雨で散歩に行けない。けれどこれ幸いと本日返さなくちゃならないビデオを2本見る。黒沢清の『アカルイミライ』と鈴木清順の『ピストルオペラ』。今日の気分としては『ピストルオペラ』とても楽しい格好いい映画だった。二本とも画面がとても不思議に写されていて、その作りを見ていると色々考えさせられる。
ビデオを返しに行ったら雨がやんでいた。雨で金木犀がもうほとんど散ってしまっていた。もういいにおいもしない。来年までしばらく金木犀のにおいはさよなら。