変容

写真には、それが克明に被写体を写し出せば写し出すほどに、被写体からどんどん離れて抽象性を獲得してしまうようなところがあると思う。そしてそれが不思議で私は写真に関わり続けているのだ。
写真は被写体を変換するひとつの手続きであるから、被写体と写真が違うものだという事は最初から分かっている。そしてその当然の帰結として、被写体の変容はどんな写真でもおこる。しかし、その変化の表れ方が不思議なのだ。あからさまに写真の上で被写体が特有の写し方をさせられている場合、例えばゆがめられたり、極端なコントラスト等の描写の影響を受けている場合はその変容は分かりやすいし納得出来る。問題は、あくまで平明に写し取られているように見える一枚の写真の上で、しかし明らかに見た事のないものが、見た事のある姿のままに現れる、ということなのだ。そしてこの後者の変容の方が、前者よりももっと鮮鋭に、私には見える。
写真に写るものは、いつも、見た事のないもの。写真に写るものは、いつも、見た事のあるもの。そのどちらもが一枚の写真では同時に起こる。どちらかでは無く、同時に起こるということが重要だ。
今日も雨。雨の夜の住宅街を歩いていたら、ブロック塀に張り付いているとても立派な形と大きさのかたつむりを見た。かたつむりも街も、とてもきれいだった。雨の夜の街は、前にも書いたけれど本当にきれいだ。私にはしばしば、市街地が生々しすぎるか死んだ様に空っぽか、そのどちらかにしか見えなくなる。そして、そのどちらも耐え難い。だけれど、雨の夜の街はそのどちらでもなく静かで、人を威圧する、排他的な壁や閉ざされた窓の攻撃性がひととき緩むような気がする。道も壁も窓も屋根も、そして少しは私自身も、雨に濡れて街灯の光を浴びて夜の暗がりに沈んで、表面に見分けがつきにくくなる事で、きりきりした質感の対立が見えなくなるからだろうか。こういう変容は、写真に似ている。けれど、全然違うものだ。