水槽

昨日、もう寝ようかな、と思って読んでいた本からふと目を上げるとレンタルビデオショップの青い袋が目に留まった。それで返却期限が今日であることに気付き、延滞料金をとられるのが癪で夜中だったけれど返しに行こうと思い、寝静まった家をこっそり抜け出し自転車に飛び乗った。
午前一時の街は、生温く凝った空気に満たされていて、空と地面が同じ明るさで、その湿気と上下に空間が広がるような輝度の在り方からか、私は水の中を自転車で走っているような心持ちがした。私は紫外線に照らされた熱帯魚の水槽の中に浮かび、走っている。横を走る街道を、時折大きなトラックがライトで前方を照らしながら走り抜けてゆく。電灯が生温い空気をオレンジに染める。そうした暗さのなかにぼんやりと境界を作る光を受け、通り抜けるとき、私の頬はその感触を捉えていると思った。光が投げかけられている空間と暗がりとは空気の柔らかさが違っているのだった。車の走る音はしているのにとても静かだった。その静寂が私の中に入り込んで、私もまた、この水槽と化した街の水に満たされてゆくようだった。私は自転車のペダルを漕いでいるのにさっぱり動いているという気がしなかった。私が街の中を移動するのではなく、さぁーっという車の流れる静寂の音とともに、空気や、街の方がなめらかに後ろに流れてゆく。
レンタルビデオの返却期限は明日だった。それに気付いて私は引き返した。でも、そんな事に気付かずあのまま街が流れてゆくのに任せていれば、もう明ける事の無い静かな夜の中で私は魚になり、水の中に沈んだ東京をいつまでも泳いでいられた、そんな気がしないでもない。
そんな事を思い出していたら、雨が降ってきた。あめ、あめ、ふれふれ、この街沈めてしまうまで。


今日は古本屋で長野重一『遠い視線』を買う。最近ヒステリックから出た方ではなく、ワイズ出版から出ていたもの。
以前立ち読みで見た時は街の捉え方の巧妙な複雑さに惹き付けられていたのだけれど、今回見直して割とドラマチックな写真であることに気付く。
昭和天皇崩御の報が写ったテレビを写している一枚の写真が挟まれていて、昨日の事と相まってひとつの事を思い出す。昭和天皇の棺を乗せた車が家の前の高速を走っていったのを、私は家の屋上から家族と眺めていたのだった。その日も雨。向かいのマンションから警官が、私たちに「引っ込めー、見るなー」という合図をしきりに送っていたっけ。

遠い視線―長野重一写真集 (ワイズ出版写真叢書)

遠い視線―長野重一写真集 (ワイズ出版写真叢書)