時代

新倉孝雄『私の写真術』を読む。リー・フリードランダーやゲリー・ウィノグランド、デュアン・マイケルズらを集めて開かれた展覧会『comtemporary photographers』の第一部toward a social landscape (1966)からの影響の見られる、60年代後半から70年代にかけての日本における一群の写真へ付けられた「コンポラ」という名称。その名称で呼ばれる側だった写真家の文章、書簡、インタビュー等を写真と織り交ぜた本。副題には「コンポラ写真ってなに?」とあるが、直接その問いを扱っているわけではない。しかし文章を読み、かつ写真を見ていると、コンポラという名称の在り方、そう呼ばれた写真にある幾つもの位相、その時代背景などが、静かに問題として浮上してくるのが分かる。時折の直接的な「コンポラ」への言及に常に厳しさが籠っていて、その厳しさに打たれる。長いけれど、その厳しさに私は自身が問われているような気がして、それをメモとしてここに引用する。

俗にいうコンポラ写真が、「カメラ毎日」に多く載るようになったのは一九六八年に出た「コンテンポラリーフォトグラファーズ」が伏線としてあったと思います。当時はベトナム戦争の拡大、そして国内では高度経済成長に拍車がかかっていたころです。そんななかの七〇年安保闘争とからめた学園紛争、そしてカラーテレビの普及。欲望を奮い立たせるバイオレンスとマネーとメディア時代へと急ぐ三つのパワーが複雑に、ぶつかりあう真っ只中でした。
未組織に身を置くものは、不透明な世相に戸惑い、やりきれないもどかしさにかかわれないことの悔しさが重なって、対岸へと逃げ出したい気分になって傍観者の視線へ走ったのです。いつか、どこかで見たアメリカ的風景はソフィスティケーションをほどこした写真、わかろうとしないで、わかったような気分になってしまう。これがコンポラの土壌であったと思います。お手本があり、スタイルをなぞり、結果を早急に求めたため、袋小路に迷い込んで持続性を断ち切られてしまったのでは、と思います。
私は写真を始めてから、重厚なテーマを背負い込んで、その地にドッシリと根を下ろし、「作品」に仕立てて世に問う方法を写真に求めてきていません。どう消化していったかというと、時代認識の温度差は個々に異なりますが、日々の生活のなかでテレビや映画を見て、新聞、雑誌に目を通し、家族、友人とおしゃべりをしては、自分なりに時の流れを把握して、気になる場所へ、気になる時間に出かけ、誰よりも見やすい「特等席(?)」でカメラを通して「…とある場面」に出会うよう心がけていました。
それにしてもコンテンポラリーほど薄情なものはありません。はかなく、あっけない消滅の危惧を常にはらんでいます。自分の写真は持続というポジションに置くようにしています。

こうした持続、を私は持てるだろうか。そうして持続する、写真の軽やかさを見ながら思う。
そして現在への批判的な態度。

いまわれわれの周りにまとわりつく写真の風潮は、家族や恋人、親しい友人たちとの関わりを身近に写し取るという押し付けがましいプライベートな告白で、「私はこうなの」「見て、見て」と、軟弱な自己内省への戯れに埋没して、写真本来の命である表現に勘違いが交錯している。

ほとんどプライベートな告白ともいえる日記を書いている私には、この言葉は痛い。私を切り開いてゆくことを、私は出来るだろうか。


時折、この本では牛腸茂雄の思い出が語られるのだけれど、最終章の<牛腸茂雄は「ギュウチョウ」さん、と呼んでいた>は牛腸がいかにどん欲に他の写真家から学んでいたか、そしてそれが時には危なっかしくさえあった事、「写真家」というよりも「写真家になりたかった」若者として生きていたかが分かる本当に貴重な証言だと思う。

私の写真術―コンポラ写真ってなに? (写真叢書)

私の写真術―コンポラ写真ってなに? (写真叢書)


ところで、この本に採録されたインタビューの載った『月光』には私のエッセイを載せてもらったのだった。生まれて初めて自分の文章が色々の文章と並んで「雑誌」の形になったのだけれど、それはとても嬉しい事だった。私は新倉孝雄さんにはお会いした事は全くないけれど、そして他のほとんどの執筆者とも面識がないけれど、この雑誌の中で様々な人とご近所さんでいられたのだと思うと本当に嬉しい。