括弧

最近たまたま読んだ本が、とてつもない数の括弧や山括弧を頻用していた。その括弧だらけの文章が気になった。多い括弧が、そうして書かれている文章がそこで述べられていることを別の位相で記述している気がして。
そしてまた、括弧というのはどのようなものであろうと思ったりして。以下、読んだ本とはほとんど関係ない話。
会話を示すのではない括弧、山括弧は、引用やその文章独特の用語を用いていることなどを示す為に使用される。けれども、括弧はそれによってくくられた語の特殊性を示すが、括弧それ単体でその特殊性を定位するわけではない。
引用を示す括弧の場合にはその引用元に従うという事が多い。ある領域での専門語や、誰かの有名なタームを使う場合もこれと同じだ。また、「ここではこの語をこういう意味で使う」という明示がなされる場合もあるが、そうでなければ語の特殊性の定位は、文章全体のつくりによってなされている。よって引用でもなく、明示もなければ、特殊性の定位は読者によって読み取られるものとなる。そして、その読み取りを可能にするのは、そうして括弧にくくられた語の用法の在り方である。
用法に明らかな一貫性が見られれば、おそらく私たちはその用法から語になんらかの特殊性を把握するだろう。もし用法が明らかに一貫性を欠いていれば、おそらく私たちはその用法から、語を筆者はほとんど全てを示すことの出来る1つの変数Xとしている=それがこの語の特殊な用法である、と把握するだろう。それぞれの括弧はその間、限定と解放との間で揺れている。見える括弧によってではなく、文章のつくりによってその揺れをつくられながら。文章においての用法に一貫性がみられるようでみられず、これとは言えない限定をもつようで持たず、しかしその語はいつも括弧でくくられていて、特殊性をほのめかすのみ。そういうことも多くあり、それがもちろん有効に働くこともある。けれども、そうでは無い事もある。どちらにせよ、しかし括弧でくくられた言葉は私たちに注意せよ!と呼びかけている。その語は括弧にくくられない語と区別して読めと言う。しかし括弧が多用され呼びかけが多くなると、そうやって読め、区別しろと呼びかけることだけが括弧の機能のような気がして。読む作業を自覚しろと。


ところで、最近読んだ本は鈴木雅文の『原爆=写真論』。本はとても良かった。そこでは写真が話題にされていて、そこで行われる排除などが問題にのぼり、しかし括弧の事は自ら言及はしない。けれども記述が写真を対象としながら言葉の問題を考慮していることは明らかである。括弧の話をもっとこの書物の記述に寄せることがたぶんしたいのだけれど、今はまだ私にはそれはできない。忘れてしまうよりは括弧について今日はメモを残しておく。

原爆=写真論―「網膜の戦争」をめぐって

原爆=写真論―「網膜の戦争」をめぐって


今日は長崎の原爆忌。バイト先の商店街にも黙祷を促すアナウンスが流れていた。そのアナウンスが流れている間も、商店街がいつものように動き、人が歩いている。アナウンスはただ黙祷の号令をかけ、アナウンスの沈黙がそれに続いた。