興味

写真屋をやめるにやめられなくなって、もうどうでもよくなって、まあいっかもうちょっと働くか、とずるずる働いている。そうやって働いていて最近気付いたのだけれど、デジカメの普及に伴って人々の写真観というのは確実に変わりつつあるのではないだろうか?私は5年位今の写真屋で働いているけれど、この5年というのは、まさにデジカメが急速に普及してゆく5年だった。そしてその間に、どんどん客の態度や、写真に期待するものが変わっていったのだ。私が気付いた事は以下のいくつかに過ぎないけれど、でもそれは割と重要な変化なのかもしれないと今思っている。
まず、デジカメの普及に伴って見られる変化の1つとして、客が期待するプリント速度が飛躍的に上がったという事が指摘出来るだろう。デジカメからのプリントを注文する客のうち、例えば銀塩フィルムからの現像においては1時間、2時間、半日、といったそれなりの仕上がり時間に納得出来ないのはもちろんの事、店頭で待っている間にプリントが出来る事を望んでいて、待つ事が信じられないといった反応をする客がかなりの数居る。そこまで極端でなくとも、「急ぎで」という注文や、「出来るだけ早く」という注文をする客はおそらくデジカメプリントの客の半分くらいにはなると思う。この速度への要求の在り方というか、写真がプリントされるという事へのこうした客の抱いている観念というのは、しばしば私が客と交わす応答に端的に表れていると思う。

私「L版100枚の注文ですね。出来上がりは1時間後です。」
客「えっ!そんなにかかるんですか?」
私「お急ぎですか、では30分ではいかがですか?」
客「えっ!この場で今すぐ出来ないんですか?」

多分客としては、デジタルデータからのプリントといえば家でのインクジェットプリンタでのプリントアウトの作業が頭にあり(それも多分カメラをつないだらすぐプリントできる、みたいなもの)、それは見ている間に行われるのが当然なのだと思う(それにしたって1枚ならいざしらず、沢山になればそれなりの時間を要することは分かる筈なのだが)。
そしてまた、次のような事もある。最近は大抵証明写真もデジタル一眼を使って撮影する。フィルムを使うよりも安価であるし、客にその場で撮影したデータを見せられるのでトラブル回避も出来、効率がよいのだ。私の店でも現在撮っている証明写真の9割上はデジタルである。だが、時に客の要望によって銀塩での撮影を行うこともある。しかし、そのときに銀塩で撮影する事を願った客が、デジタルの性格を要求する事が少なくない。

私「撮影おつかれさまでした。出来上がりは夕方6時です。」
客「撮った写真は今ここで見られないのですか?」
私「フィルムを現像してみませんことには…」
客「!?」

こういう客と話していて思うのは、彼、彼女にとって写真を撮ることと、写真が見られることはもう現像やプリントといった煩瑣なタイムラグに隔てられてはいないのだろうということだ。
もちろん今の時点では逆にまだ銀塩の印象の方が強くて、データの入ったメディアをプリントの為に読み取って受付時にすぐ返却したりすることを、銀塩でのフィルムを預かるという作業に慣れた客が驚きを持って受け止めたり、デジタルプリント用の店頭受付機で写真を見ながら注文できるということが信じられないといった客も多数居る事は確かだ。一部の客にとっては堪え難い程に遅いとしても、デジタルでのプリント自体の仕上がりは銀塩と比較すればフィルム現像というプロセスが不要であるため飛躍的に早くなり、その銀塩との相対的な「早さ」を快適と感じている客も多い。
しかし、将来的には上記のようなデジタルを中心に写真を捉える客の方が将来は圧倒的になるだろう。そして、彼らはデジタル写真という技術の現在を正しく捉えているわけでは決してない(デジタルは写真プリントになるまでに時間を必要とするし、画素数を上げて画質を上げれば読み込みにも時間がかかる…デジタル=早い!という彼らの認識との食い違い)が、多分デジタル写真というのは、彼らの認識のようなものとして今後流布してゆくのだろう。
写真はとった時にもうそこにある。ディスプレイ上にある写真はもうそこに「ある」のであって、それはプリントとしてそこに「ある」のと同じだ。プリントに時間がかかるのは理解出来ない。写真はそこにあるではないか。上手くそれをまとめられては居ないのだが、日々写真屋で客と店員という関係でやりとりしていて客が言っているのはそういうことなのではないか。そして多分それはこれからの写真の在り方なのだと思う。
私は、写真はやっぱり撮影の時点やプリントと直線的に直接的に結びつけられるものではないと思う。端的に言って、未現像のフィルムは写真じゃないし、ネガは写真じゃない。デジタルになると確かに迷うというか同一視したくなる気持ちが分からなくはないけれど、ディスプレイ上に映っているものは、やっぱり紙とは違う。それはもう身も蓋も無いくらい即物的にいって違うと思う。しかしあまりに無邪気に撮影とデータとプリント、写真とを同一視するような客の、それもひとりやふたりでなく、年齢も性別も様々な彼らの言動を見ていると、それは理解できないけれどとても面白く、私の写真観はだんだんとゆさぶられているのかもしれないと思う。というか、私のようなものの見方は世間に通じないものになってきているのかもしれないと思う。
それはちょっと怖いというか、あんまり好ましいことに思えない。現実と虚構の区別がつかないというのは、ゲームなんかにはまることよりも、もっとこういう事なのではないかと思う。だけれど最近、私はデジカメにとても興味があって、今まで必要ないと思っていたデジカメを欲しいと思っている。理解出来ない彼らの言動を、実際に自分がデジカメを使ってみる事で、理解したり理解できないでいたりして、建設的に動いてゆけないだろうかと思う。