挿木

今日はガーディアン・ガーデンで写真展を見てきた。フォト・ドキュメンタリーNIPPON船戸太郎展。
郊外のマンションを俯瞰で撮影した写真。写真には大規模なマンションが公園のような広い緑を従えて右に左に複雑に並んで写っていた。写真においてとられていた、どこからどのようにして、といった想定が困難なあの視点や、どのような大きさかという事の想定困難な建物の切り取り方と巧みな遠近感の操り方とによって、写真は現実の写しであるという確かな繋がりをそこに見いだせずただ写真として半ば投げ出されてある。しかしそれは何度見てもやはり容易に認知できる街のすがた、マンションや緑や車であって、このようにして言葉でひょいと分節することすら出来る程になれっこになったその姿であって、しかもそのような意味で現実的な写真であるこの写真を見る事は先に述べたような現実との切断を見せるその局面で大変ラギッドな画面上のせめぎ合いとなっていて私をめまいとともに魅了する。それは写真が私を圧倒するという事なのであろうし、それは写真が私を惹き付けてその中に取込みつつ突き放すという事なのであろうし、つまりは写真的な圧迫感と不安感に見るものを陥らせるということなのである。大きなビルによくあるように、その場所は実際に、そこでの人間の存在が効率という観点に特化して考慮されている場所特有の、建築物の量的莫大さとそれに釣り合わない身体のサイズとのギャップが引き起こす押しつぶされるような圧迫感と突き放されるような不安感とに支配されているのかもしれない。しかし今はそれと直接は繋がらない写真の圧迫感と不安感に支配されながら、だがそこへ接続しようと具体的な被写体として感知されるマンションに誘いかけられている。マンションに暮らすっていう事はどういう事だろうね…もっと具体的な問題系列までもそこに巻き込まれてくる。
写真が現実を写す透明な窓として立ち現れる事に胡散臭さを嗅ぎとられてしまう現在において、ドキュメンタリーが上手く機能するとはどういうことなのだろう、と写真を見ながら思い、そこにある写真を見るときに上記のような現実と写真とのリンクとその切断を見て、このようなリンクと切断が常に起こるような写真において現在ドキュメンタリーという言葉は上手く機能するのかもしれないと思った。しかしそれはドキュメンタリーに限った事項なのかどうかは分からない。写真は原理的に、現実とリンクしつつ切断されている。そうした引き裂かれが明晰に出ている写真を私は好むけれど…それは写真の原理主義みたいなものだろうか。でも根本的なものに引かれていなければそもそも写真になど引かれているかどうか。


帰り道に外苑前のシェルフに寄って、リー・フリードランダーのカタログを買ってきた。LIKE A ONE EYED CATというフリードランダーの作品を網羅したカタログがずっと欲しいけれど、高いしあんまりないし、とあきらめていたら、Generalitat Valencianaというところのカタログが売っていて、割と網羅的に作品が載っていてよい感じだったので買った。近年の植物などはよくわからないけれど、フリードランダーのフェンスや反射やポールや影といったものに錯綜させられる都会を写した写真は知的で面白い。そういえば、ジョナサン・グリーンのAmerican Photographyではロバート・ラウシェンバーグのコラージュとこのフリードランダーの錯綜したガラス反射やそのガラスを透過した光景や影のつぎはぎの都会が比較されていたな。この本は教科書みたいな本だけど割とまとまってアメリカ写真を概観できるので良かった。

Like a One-Eyed Cat: Photographs by Lee Friedlander : 1956-1987

Like a One-Eyed Cat: Photographs by Lee Friedlander : 1956-1987

American Photography

American Photography

帰宅してからガジュマルの枝を一本切り取って、挿し木に挑戦してみた。上手く行ったら友達に里親に出すつもり。さてさてどうなることやら。今日はなぜだか久しぶりに長々と日記を書いたな。