誠実

今日から連休も終わり、やっと普通の生活のリズムに戻る。私は割と生活が単調な方が好きなので、連休みたいにそのリズムが崩されるよりは、普通の祝日など無い日々の方が好き。それも定職についていない気楽な学生だから言えることかもしれないけれど。
電車の中で『写真との対話』を読む。倉石信乃の「監視の現在+ウォーカー・エヴァンズの『超越』」という論が良かった。以下は自分の為のメモ
観察すること、凝視することは、他者への暴力ともなりうるが、しかし他者を他者たる正にその側から理解しようとする誠実な試みにもなりうる。エヴァンズはこの危険な両面性を信念を持つということによって克服しようとした。それが信念のようなものに頼らざるを得ない所に、他者を一方的に写し取る事への現在見られるような忌避はある。倫理問題。しかしそれでもこの観察と凝視に賭けるというエヴァンスの誠実。しかし結局の所、信念の無い所では何も創りだせないのではないか。被写体を選び取る事、写真を選び撮る事、それらに外部から与えられた絶対的な根拠などありえないだろう。写真はいつも、信念の行為ではないのか。取りあえず指摘できる限りの倫理や道徳を満たすという対処療法ではなく、この写真の根拠の無さに自覚的であれば、信念が一番の問題である。私達は、信念に賭けるしかない。
ところで、本当に「写真との対話」なんて可能なんだろうか?相手はいつも黙っていて、饒舌に話すとしたらこちらには理解できない非時間的で無分節の粒子の言葉だ。私は写真に対する度に、言葉を無効にされ、奪われる気がしてならない。

写真との対話

写真との対話