問答

問う事は、可能性を探る事。正誤という次元ではなく、問いを問うならば、それに答える事はきっと可能性を探ることだ。なにが、ありうるか。答を出す事は、問いを生かす事。時に、1つの答を選ぶ時、それはその他の可能性を殺すようにすら思える。しかし、それは恐らく偏狭な考えだ。選べないかもしれない可能性を選び、答を出す事、それは、全ての可能性がそのように祝福される可能性であるという事を、認めるという事。そして、そのように選べないかもしれない答を選んで出す事によってしか、全ての可能性は真に可能性として認められないのだと思う。
問う事で可能性を探り、選べない答を選ぶことで全ての可能性を祝福する。問いは、問われなければならない。答えられなければならない。問うだけではだめだ。答えなければ。たとえそれが、答は無いのだ、とか、答は選べない、という答でも良い。問うだけでは、可能性はただ、ありえたかもしれないことに留まる。答えることで、それを現に選ばれ、ありえた何ものかにする。そして、それは同時に選ばれなかった全ての可能性が、そのようにして選ばれたかもしれない何ものかとしてありえたことを指し示す。問いは、答えられる為にあるから、問いなのだ。