遺影

アルバイト先で、亡くなった方の写真の修正を手がける事が時折ある。大抵は、独りで写った良い写真、気に入った写真が無くて、と旅行や家族の集まりで他の人と写り、故人は小さく写っているが笑顔で、遺族にすれば自然な写真というものを人は持ってくる。それを私はデジタル画像に変えて、フォトショップで隣の人達や背景に写る文物を消して、薄いグレーやブルーのグラデーションだったりする背景と取り替える。時には故人に紋付の着物を着せることもあるし、お隣の人が親しげに肩にかけた手を取り去ったり、本人が手にしていたグラスやタバコを消したりする。
そうやって写真から、様々なものを消し去り、グレーのバックに人を据えていると、人が死ぬというのはそうやって他の人々や文物や、その他本当に様々に多彩な物たちから引きはがされるということなのだろうな、と思ったりする。死んだ人は、グレーやブルーのグラデーションのような、そういう抽象的な次元にしかいられないのだろう。というよりも、生きている者が、故人をそういう抽象的な次元に置く事で死んだ事を納得しているのかもしれない。旅行や家族の集まりの折に撮られた写真には、まだ生きている私たちと地続きの故人が写っている。それをそのまま遺影として使うと、故人は死んで、もういないのだ、ということがさらに耐え難いものになってしまうのかもしれない。
もう何人ものひとから、そうやって私は様々なものを取り去って来たけれど、それらは残された遺族や友人達が故人がもういないということに向き合う際に、役に立っていたのだろうか?