迷子

今日はバイトと授業の間に1時間くらい余裕があったので、豪徳寺のあたりを散歩する。行きは電車で帰りは歩き。そのような交通手段をとることが出来る位の近所。散歩も何度か行った事があるし、大体の地図は頭に入っている。けれど、散歩に行く度に私はこうした住宅地をいつまで経っても把握できないということに思い知らされる気がする。
煩瑣に折れ曲がり、方々で幅を変え、先々で行き止まりになるという非計画的な道路が町並みを複雑に折り畳んでいる。その道の通り一本いっぽんが、同じようでありながら違う様相の家々の並びを宿している。ひとつ角を曲がれば、見知った光景はたちまちに姿を消す。視界は周りを取り囲む家々に遮られて目印となるような建物も特に見えない。しかも同じように見えてしまう、という事が曲者なのである。同じようであるということは、本当は同じでないということである。だが、そうした類似性故に一本いっぽんの通りがそれぞれ固有の一本いっぽんの通りとして把握されることは困難で、そのためいつまで経っても私の手元に残るのは漠とした印象のみである。そうした捉え難さ。
そのような捉え難さのただ中を歩いていると、少し不安になる。自分が何処にいるのか、そのあたりの地理に詳しいとか疎いとかそういうことではなく、その基盤が危うくなるような気がする。似たような、しかし少しづつ違ういくつもの通りを抜けてゆくうちに、通り抜けてきた記憶の順序はあやふやになり、どれだけの時が過ぎたのか、どれだけ東西南北のそれぞれに進んだのか、曲がったのか、分からなくなってくる。気がつくと私は無時間的な、座標軸を失った非常に抽象的な場所に、具体的な住宅地に居ながらにして居るような気がする。加えて、昼間の住宅地には人がほとんどおらず、私はいつも思わされる。ひょっとして人類はもう死に絶えていて、私はたった一人である私は本当は死んでいて、この無人の世界にいる。そして私は、もう二度と元へは帰れないだろう。
でもそうした終末的な感覚は、孤独感と寂寥感につつまれつつ一方で静かな平安をたたえていて、私はそれに恐れを抱きつつ魅了されている。