陳列

今日は強風の1日。私は風に吹かれていてとても気分が良かったけれど、これも花粉症じゃないから言えることなんだろうな。風に吹かれていると、大気を全身で感じることが出来て、生きている事を鮮明に感じ取れる気がします。
午後、世田谷美術館瀧口修造展に行ってきた。とても面白く、密度が高くて、とてもとても見た!という感覚になれない展覧会だった。また、シュルレアリスムの豊かさ、広さ、深さを見せつけられたような気がする。もっと会期の最初の頃に行って何度か観るべきだったかもと後悔。図録も売り切れちゃってましたしね。
私は展示の中での大辻清司の写真がとても気になってしまった。瀧口の書斎を撮った写真で、そこでは展示されたオブジェや本や絵が所狭しと積み重ねられ、並べられ、飾られている。美術館ではそれなりに作者や贈呈者別に分けてそれらは展示されているし、それらは一定の感覚を保ち、重なりあって見えなくなることもない。それは当然の事に見えるけれど、本当にそういう展示が当然なのだろうか?この書斎のぎっしりとこれら漂着物が詰め込まれた有り様、私にはどこに何があるのかわからないその有り方はではこの展示とどのような関係にあるのだろうか?などと冒頭から展示される大辻の写真を見て思った。判読出来たり出来なかったりする本の背表紙や、得体が知れたり知れなかったりするオブジェを大量に写し込んだその写真に見入りつつ、またそれらの情報量の多さに圧倒されつつ、私と友人はこの中に小人になって紛れ込みたい、などと話していた。美術館の白い壁と広々とした空間は、その書斎とは随分かけ離れているように思えた。
しかし結局展示を見終えて私は、書斎をこの展示で体験した、写真にあった重なり合いのただなかに入り込めた、と思った。小さかったり、細かな部分が気になる姿をしている展示物に顔を近付けて見ているうちに、だんだんと私は、展示されている空間、美術館の事を忘れた。小さくなって書斎に入り込んだ私は、重なりあう瀧口の元に集まった漂着物の隙間に潜り、それら1つ1つと向かい合った。展示物である漂着物は物理的には瀧口の書斎を離れたのだが、それらは物として書斎に相応しいような子細な観察を、手にとって触れるほどの距離を、そうしたものに支えられる親密で持続的で個人的な視線を要求する。その要求に答えて視線を返す事が、書斎をここに呼び起こしていると私は感じた。勿論、それは瀧口の書斎とは違う何かであり、この展示の見方としてそれが妥当かなどわからない。だけれど、瀧口の書斎を離れ、再び漂流物となった事物が、がらくたを含むそれら全てが、何か力を発揮する場が出現していたように私は思うのだ。


ところで、全然関係ないけれど、帰ってきてからテレビでハムナプトラ2を見てとても面白かった。節操無いくらいイキイキしたミイラの化け物を見ていると元気がでるよー。