散歩して、雪の溶ける音を聞いていた。時折、雪の積もった木から、しゃりしゃりと溶けた雪が落ちてきた。それらは全て、私の外側で、麗しい音をたてていた。私はそれらを聞いて、とても穏やかな気分になっていた。
それなのに今夜、私は自分の気分的な問題で、家族に迷惑を掛けた。
もっともっと、穏やかに、もっと平穏に、私はあらねばならない。だが、それはいつも心がけようとしていることなのだ。いや、それ以上、もっともっと。だが、出来ないこともある。いや、それはお前の甘さのせいなのだ。そういう自問自答が、さらに私から落ち着きを奪ってゆく。
恐ろしいのは、いつも自分自身なのだ。私は私の中に閉じこめられる事をいつも恐れている。だから、私は私の外側を必要とする。例えば雪の溶ける音。私によって窒息しようとする私に必要なのは、私には理解できず、私とは相容れず、私に知覚できるぎりぎりの私でないもの、非私。情に振り回される私に必要なのは、情に相対するもの、非情。単に私がない状態無私でも、単に情がない状態無情でもなく、私や情に敵対し、私や情を相対化し、それらをもしや克服する手立てとなりうるかもしれないもの、非私、非情。それは私を、私の情を、引き裂くものであるかもしれない。いや、引き裂くものでなければならない。この私という閉塞をうち破るには、私など引き裂かねばならない。