私が見る夢には、大抵音が入っていない−単に夢の音を覚えていないだけなのかもしれないが−今日の夢は珍しく音入りというか、音の比率が非常に高かった。私は妙に高い塀を張り巡らした家ばかりが立ち並ぶ無人の住宅地を歩いていた。それだけならどうということもないのだが、その夢には音がついていて、それは曲『展覧会の絵』だった。夢の進行や夢の映像と、音が全く乖離しているのが気持ち悪かった。
だからどうした、という話だが。

明るい部屋―写真についての覚書
バルトは結構好きだけれど、下手に関わらない方でおこう、と思ってずっと放置していたのだが、最近気になって仕方ない。私は頭が悪いから、ぐだぐだ考えても大したことは出てこないけれど。でも気になったものは仕方ないから、そのうちもっとちゃんと読んで考えてみようか。
今ふらふらと考えていることを適当に書き散らしておく。
プンクトゥム、だとかの言葉は一体どのようなものだろう。以前は、プンクトゥムって名指したとたんにストゥディウムとどこが違うかわかんないじゃん、とか思っていた。けれども、今は、あの言葉は、写真に対しては自分の責任をもってある一点を選び取るより他に書きようなどないんだという宣言なのだろうと思っている。
それは私を突き刺すものなのだ、とバルトは書いているが、そこでの私というのは一体誰なんだろうか。突き刺されるのは、言葉なんじゃないのか?プンクトゥムというのは、言葉が始まる端緒の事じゃないのか。
写真について、写真に対して、書かれた言葉を見るといつも不思議に思う。どうして書き始めることが出来たのだろうと思う。写真においては全てのことが混同されている気がする。かつてあった被写体のこと、今ここに写っているその写り方……。そしてそれらは、一枚の画面の中に、いっぺんに示されている。私は、そうした写真の簡明なのだが複雑な在り方に、どうやって見切りをつけて、どこから人はものを書くのだろう、といつも考えている。それは写真についてだけでなく、どんな対象についても言えることなのかもしれないと思いつつ。だがいずれにせよ、バルトの『明るい部屋』は、私の疑問にその書物全体で答えている気がする。それ故多分気になるのだ。