延期

今日はバイト先の雇い主が気持ち悪いくらい優しいなーと思っていたら、辞める日を延期してくれという話だった。給与支払いの都合上向こうと話し合って辞める日を決めたのですが、結局入学式の撮影の人出が足りなくて困ったらしい。いやいやこちらもお世話になったのでかまわないですよーとかなんとか調子の良いこと言って引き受ける。ずるずる。まあ、本当にかまわないんですけど。
(それなら何故やめるのかって?嫌なバイトでももうちょっと時給が良くないと、今年はあんまりバイトに時間を割けそうにないからです。論文書かなくちゃならないし、学費払わないといけないしね。でも急を要する話ではない。)
今日は夕飯の後、美味しいタルトを食べた。妹が貰ってきたキルフェボンの苺とバナナのタルト。ホワイトデーのお返しだそうです。妹は私の10倍くらい世慣れていて、そういう季節系行事など楽しそうに易々とこなしている。時々家族なのに異星人みたいに思えてきます。
でも、別にそこまで羨ましくはないです。楽しそうだなとは思いますが。色々と試してみて、私は妹はじめ人が実践している楽しそうに見える諸々に、自分はたとえ参加しても楽しくないんだ、と思い知りましたので。人の幸せは自分の幸せとは限らないです。私は派手でなくとも平安に、静かな生活が送れて、自分のやるべき事に黙々と打ち込めていれば幸せなのです。
例えば私は中学生の頃は、テレビのドラマの話ばっかりしているギャルに興味もないのに無理して合わせて苦しくなって、それでも無視されたりしましたが、ああいうのは愚かとしかいえません。そもそも相手を内心見下していたので、無視されたりしていたのは当然の事で、今から振り返るとイジメにあって可愛そうというよりは、イジメにあって当然だし、それ以上に滑稽です。己を知れということです。
そんな事言いながら、今だって、人様が羨ましい時、人様が自分より幸せそうに見える時などしょっちゅうですけれど。ただ理性としてはそれを否定する事が出来るようになったということでしょう。それだけ大人になったのかな?いや、まだ心情としては小学生くらいですけどね。


痕跡の論理―写真はおのれを何と心得るか

痕跡の論理―写真はおのれを何と心得るか

ところで、昨日の夜は大嶋浩の『痕跡の論理』を読んだ。デジタル写真と銀塩写真に共通性と連続性を見いだす、という立場にたちながら、現在個々の作品においてはデジタル写真に従来の写真美学をうち破る作品が多く立ち現れていることを断片を集積したというこの本は見いだしてゆく。まだざっと読んだだけなのでこれは乱暴な読み方なのだろうと思うし、もうちょっと考えなくてはいけないなと思う。
だけれども、今の時点での事を書くとすれば、私が気になったのは、この本で丁寧に何度もなぞられる写真論と呼ぶのかそのロジックではなくて、時折挙げられる作品に対するこの本の記述の仕方だった。(この本で言われているような旧来の写真の美学のうち破りは銀塩でも行われているのではないかしら?と思うことはさておき。そういうどっちが正しいかといった事は私はあんまり興味がないんだ)その記述の引っかかりを私も丁寧になぞりたいのだが今は分からずにいる。でも私は乱暴で中途半端なメモをしてみる。そうでもしないと忘れちゃうからね。
いろんな事が宙吊りのような気がしている。写真を記述する、その時に選ばれている言葉、「乾ききった」とか「ポリフォニーを奏でているかのような」それらは何故そこにあるのか。なぜその言葉がそこにあるのかは文章の中にはあまりないように思える。それらは唐突にやってきて、投げ出される。それは該当の写真を見れば納得できますよ、ということなのだろうか?
でも私は今、この文章を読んでいる。この本は本としてここにあって、それなりに自足するものではないのか。この本の文章は、ロジックの部分では大変丁寧に、その曲折をなぞろうとしている。それではなぜ、ロジックの部分の丁寧さが、作品を記述してゆく時に失われるのだろう。なぜ、そのような二面性がこの本に同居しなければならなかったのだろう。本の中で、文章が引き裂かれている。その引き裂くという比喩をこの本がしばしば口にするから、私はそれにひきずられて、こんな事を気にしているのだろうか?
写真を書こうとする言葉は、そういう唐突さをいつも孕んでいるような気もするけれど……